STAR WARS 面白さと愉しみ方 ネタバレなし版

STAR WARSの面白さと愉しみかたについて『理屈コネ太郎』の私見を述べたい。あくまで私見である事を銘記して読み進めていただきたい。

結論から先に言うと、STAR WARSの面白さは個々の作品の未完全性であり、愉しみ方はその不完全部分に対してファンの1人1人が自由に想像の翼を広げて解釈や予想を持つ事である。

要するに、STAR WARS作品や登場人物について一家言もてば、もう立派なSRAR WARSファンだってこと。

STAR WARSは遠い銀河の大昔の一時期に勃発したジェダイとシスの間で繰り広げられた権力と思想を巡る複数の戦争についての膨大な作品群である。

作品群には、映画、連続ドラマ、アニメドラマ、小説、コミック、ゲームなど、様々な形態がある。

既述した通り、STAR WARS作品群の特徴を1つあげるとすれば、その完全性の乏しさである。

ふつうの映画はその作品中においてその作品を愉しむための殆どの要素が説明される。

またふつうの連続ドラマはそのシーズンにおいてそのシーズンを愉しむための殆どの要素が説明される。

しかしSTAR WARS作品群では、そうした作品としての完全性が極めて低く、ある作品を愉しむためには別の作品に埋設された伏線を知っておく事が必須であったりする。

SRAR WARSでは多くの作品が前日譚からの伏線を回収したりしているし、また後日譚へと続く伏線を投げている。だから、ひとつの作品を鑑賞しただけでは、その作品を存分に味わう事ができないという、なんとも歯痒い作りになっているのだ。

最初の公開映画であるEpisodeⅣ(勿論、公開当初はEpisodeⅣなどという呼び名は無く、単に”STAR WARS”と呼ばれた唯一の映画だった)では、斬新な映像表現や奇抜なメカニックデザインが驚きと賞賛をもって受け入れられた一方で、登場人物同士の過去の因縁や出自についてはハッキリと表現されず、フォースやジェダイという物語の根幹を構成する概念についても説明が決定的に不足していて、この作品を観た人の心の中にどうにも処理しきれないモヤモヤ感を抱かせた。

題名がSTAR WARSと複数形なのに、映画中で扱われた戦争はひとつだけというのも、猛烈に不可解だ。

現在はEpisodeⅣと呼ばれるこの映画は、観客をモヤモヤさせる点が実に多かった。なにしろ、ルーク以外の登場人物達の喋り方がなんともいえず思わせぶりなのである。

しかしこのモヤモヤ感は多くの映画ファンにSTAR WARS世界を探求する強力な原動力を与えた。その結果、人々はSTAR WARS作品について自分の意見や推察を語り始めたのだ。

3年後に公開されたEpisodeⅤによって、ファンはそれまでのモヤモヤ感に一定の解決を得た一方で、EpisodeⅤで登場した新たな謎や説明不足や矛盾によって更なるモヤモヤ感がファンの心に生じてしまった。

その更なるモヤモヤ感はまたまた3年後に公開されたEpisodeⅥで、ベイダーとパルパティーンの死亡によって一旦は雲散霧消したと理解したファンもいたが、しかしEpisodeⅣ~Ⅵで説明していない多くの謎がアプリオリ的な前提に基づいてストーリーが展開している事に気付いていたSTAR WARSファンは多かった。

EpisodeⅣ~Ⅵで描かれていない多くの事柄がSTAR WARSにはたくさん残されていると。言い換えると、多くのファンがSTAR WARS世界の描写にはEpisodeⅣ~Ⅵの3作品では全く不十分であると感じたのだ。

たとえば、ルークの父親はどうしてダース・ベイダーになったのか? ダースが仕えていた黒い老人とはどういう関係なのか? ジェダイ騎士団とは? ジェダイ騎士団はなぜ滅んだのか? シスとは? EpisodeⅣ~Ⅵを見てしまったファンたちの心の中には、こうした根源的な疑問が堆積し推理が渦巻いていた。

このように、知れば知るほど増加するモヤモヤへの解決を欲して次の作品を求めてしまうという中毒性をこそが、STAR WARS作品群の特徴なのだ。

そして、EpisodeⅥから16年後にEpisodeⅠが公開され、その3年後にEpisodeⅡが、更にその3年後にEpisodeⅢが公開された。

この3作品(Ⅳ~Ⅵに対する前日譚との意味でプリクエル3作品と呼ばれる事もある)のなかで、ジェダイ騎士団やルークの父親の幼年期からの成長と闇落ちが描かれ、ルークとレイアの出生の経緯、オビワンのベイダーとの関係や決別などが描かれたため、それまでの多くの疑問に整合性のある解が与えられたとして喜んだファンも多かった。

しかし一方、EpisodeⅠ~ⅢはCG技術を多用したため、これに拒否感を示すファンが多かったのもまた事実である。

そしてGeorge Lucas の手を完全に離れて制作されたEpisodeⅦ~Ⅸ(Ⅳ~Ⅵの後日譚という意味でシークエルとも呼ばれる)、とくにEpisodeⅧがそれまでのSTAR WARSファンから大顰蹙を買ってしまったのである。

話を元にもどそう。

STAR WARS作品群(アンソロジーやTVシリーズも含む)に顕著にみられる不完全性は以下が原因と思われる。

  1. 創造者George Lucasの意図によるもの
  2. Disneyに雇われているけれどLucasのSTAR WARS世界観に精通傾倒している者達の意図によるもの
  3. Disneyに雇われていてSTAR WARS的世界に殆ど興味がない者達の意図によるもの
  4. 脚本や演出上の単純ミスによるも

の4つに大別できるとすれば、EpisodeⅣ~Ⅵでは1と4が混在し、EpisodeⅠ~Ⅲでも1と4が混在し、EpisodeⅦ~Ⅸでは3と4が混在していたことになる。

ところで、Rogue Oneには2と4が混在していたと思う。

EpisodeⅣ~ⅥでLucasのSTAR WARS世界に夢中になったファンは、②までは許容できても③には我慢ならないと明言する人は少なくない。EpisodeⅦ~Ⅸの3作では、それまでにアプリオリとして扱われてきた多くのSTAR WARS的お約束が酷い形で無視されていると感じたファンが多かった。

とはいえ、不思議なもので、EpisodeⅦ~Ⅸもそんなに悪くなかったよ、いや寧ろ面白かったよ…と感じるファンもいるのは間違いないし、興行成績も決して悪くはなかった。

こうした事を考慮しつつ、STAR WARS作品群の不完全な場面や状況を自分なりに推理し検証するのがSTAR WARSの愉しみ方なのだと思う。

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